セキララ

毒を以て毒を制す

輪るピングドラム

”なんて優しくて残酷な話なんだろう”
これが輪るピングドラムを何度か見た私の最近の印象です。一視聴者としての感想をようやくある程度書けるようになりました。個人的見解やネタバレを多く含みます。

1度目の視聴は閉ざされた箱の中の乾いた心に惹かれました。理不尽に決められた運命に対してあまりにも人は弱くて傷つけられ、容赦のない世界にボロボロの人間が復讐をする。とても悲しい現実をえぐったアニメとして映っていました。

ゆりや多蕗の立場にいる私にとって物理的にどん底から引きずりだしてくれる桃果は希望でした。

ただ、登場人物たちの残酷な運命の数々に押しつぶされそうでした。彼らのようにここまで追い込まれたら逃げ場がないと感じていました。物語前半の冒頭で流れる決められた運命に沈みがちでした。

見終わってしばらくはとても暗い話で救われた感じがしませんでした。感動したけれど桃果の光はすぐに消えてしまいそうな気がしていました。今思うと私の心境は多蕗やゆりの置かれた立場そのものでした。多蕗はもう戻れない楽しかった過去を振り返って「何が大切だったか思い出せないんだ」とこぼしています。多蕗とゆりは劇中である時には自然と大切なものを人に分け与えたり、別の時には大切なものを失い人から奪おうとします。それでも確実にどちらも彼らの本心で、揺れる心の狭間でその時々の心のしぐさが、多蕗のかけた言葉が苹果を救っていたりします。*1


ただし希望は遠く、光と闇は点滅して簡単に反転し、時に彼らを残酷に駆り立てます。
また、彼らは自分たちが間違っていることにも気付いていました。彼らもともすれば希望の光が消えてしまいそうで、もはや叶わない過去の希望を手にすることが彼らの目標でした。自分たちの手からすり抜けていった幸せな過去を過去と受け止めることができない。虚構で、間違った執着です。いつしか登場人物たちのこうした姿は過去やいつか過去になる現在、そして現実に縛られた亡霊だと考えられるようになりました。
私も外部にある”希望の存在”はこの目で見て知っている、どこまでも解けない自分の心の闇に食いつくされそうになる。愛を知っていたが”忘れてしまった”。ユリ熊嵐「失ったものを忘れたら本当に失ってしまうよ」と教えてくれます。

いったん視聴をやめてしばらくしてからトリプルHの歌詞の意味を考えるようになりました。頭の中でいつまでも鳴り響いた『ROCK OVER JAPAN』、『灰色の水曜日』は希望に満ちた優しい歌なのだとようやく気付きました。
どん底でも「さあ思い出して 輝いていた頃を 真剣なまなざしで 愛し合っていた頃を」と鳴り続け、人々を励まし続けた音楽。この頃、考察ブログ・僕と君の間にあるもので世界をかえることについて”分け合うこと、信じること、忘れないこと”が大事だと学びました。

愛の話なんだよ、なんでわかんないのかなあ。
(第1話、最終話)

愛を受け止めることで全てがつながりはじめ、他の楽曲やセリフに転がる思想がようやく入り込んで生き生きと輝きはじめました。

陽毬の狡さと私

ここ三か月ほどずっとこの作品のことが引っかかっていました。最近になってようやく、私がここまで引き込まれていたのは自分の感情を陽毬に移入しすぎていたためだとわかりました。


彼女は返せないほどの愛をもらいましたが、兄たちの一生懸命な思いがあっても病気だけはどうにもなりませんでした。両親がいなくなって、それでも「陽毬が笑顔で帰ってこれるのはうちなんだ」と支えてくれたにも関わらず、運命はとても残酷でした。健気で優しい陽毬だけれど「もうやめて。もう十分だから」と自ら手を離すこともありました。
自分に課せられたものの重さや家族の想いが負担になり、生きることに少し退屈している姿。病気のために夢も我慢して時に成功した仲間に嫉妬もする、家から自分の居場所がなくなっていくことに不安も感じることのある、優しい残酷さ。私は周りの人達に支えてもらってなんとか生きていきながらも、大きな宿命に抗えずに塞ぎ込みがちでした。だから陽毬に特別入れ込んでいました。

「伸ばした手は宙を切って落ちる」というオープニングの歌詞にこの物語の”優しい残酷さ”の雰囲気が表れていると思います。この物語は純粋に優しくてそれゆえに優しい残酷さがあります。人間は生きてる限り誰もが小さな傷を受けずにはおれない。優しく手を伸ばし合っていてもそれは避けられない。


生きるってことは罰なんだね。

サネトシは闇の極致の存在ですが、誰かに選ばれることがあれば中間点にとどまれたはずです(もちろん闇の”象徴”なので消滅することは決してありませんが、世界にたくさんある真っ暗な闇に少しだけ光を照らしてやる、そうすることで変質する。闇を倒すのとは違う。愛を忘れなければ世界を変えていけるというウテナ・ピンドラ・ユリ熊の共通項はそういう捉え方ができると思っています)。サネトシは歪んでいるけど完全に間違っているとは思いません。簡単に悪として切れない、誰もが身に覚えのある共通した闇の部分を抱えています。

「逃げられたら追いかけない。疲れちゃうから」「私の人生に果実なんてない。キスは消費されるんだよ」という陽毬に「逃げてばかりじゃつまらない。キスだけが果実なんじゃないのかな」と返す。

「透明になって誰があなたを見つけるの?」とユリ熊嵐の紅羽がいうように、運命から逃げてばかりでは捕まえることができません。一見とても優しい選択なのですが、生きるには空虚になってしまうマイナス面があるのです。


輝いてた10代から瞳の奥に
焼き付いた思い出があるだろう
愛を隠し 愛を探し 孤独に耐えて
”何もなりたくない”なんてウソさ
(HIDE and SEEK)

求めないことは優しさのはずだった。ただずっとこのままでいれればいい。それ以外には何もいらない。何も求めてなんかないのに。
求めることをやめればわがままでなくなると思っていた。でも、それでは一番大切なことに気付けない。ずっとこのままでいることなど現実ではできません。*2


何かを求めることを諦めていた陽毬は晶馬によって見つけられ、自分が"選んでもらえる側の人間になれたこと”に気付きます。逃げる一方では果実は得られなかったのです。陽毬の場合はそこにある果実に気付かないフリをしていたと言っていい。彼女自身の病気も多くのことを断念させてきた一因ですが。
表向きでは「追いかけるのは疲れちゃう」と心を閉ざしているけれど、本当は置いていかれたくなんかない。自分を置いて夢を叶えてしまったダブルHと唯一の肉親である兄の周りの環境の変化。とても心優しい陽毬だけど、どうしても多少の嫉妬を隠せません。だってそんな感情を抱いてしまうのは仕方のないことだから。「このままみんなでずっと一緒にいたい」という願いもある種のわがままなのだから。

「誰かが自分のことを選んでくれる」というのは特別なことです。ある人が誰かを選ぶということは、同時にある人によって選ばれなかった人間が存在するという反対側面が現れます。この事実自体は預かり知らぬこととはいえ、選ばれて与えられた愛をいずれは何かによって回収されてしまうことを陽毬は恐れていたのではないかと思います。"いずれは損なわれてしまう”という恐怖を人間は無意識に強く持っています。"何もしないからわがままじゃない"とはおそらく誰も思ってはいない。それが言い訳だと気付いているはずです。誰もがひとりぼっちになること、世界から自分が消えてしまうことという最も恐ろしい事実を時が来るまでひた隠しにしているだけなのです。陽毬の場合はもう一つの数奇の運命を辿った少女が目の前に現れることとなりました。彼女が陽毬と対峙しなければならなくなったのも彼女の持つ優しさと傲慢さゆえでした(輝いて生きるには愛が必要なので綺麗事だけでは済まされないし、彼女の性質が陽毬と同様になるのは人間として当然です)。

真砂子は陽毬を「図々しい子」と評します。彼女は現在は実兄である冠葉に選ばれていない人間です。冠葉が選んで特別に思い入れているのは実の妹ではない陽毬だから。当の陽毬は選ばれていることに意識的ではなく、どちらかというと抗えない宿命に三兄妹全員が呑まれそうになっているために大切な絆は何度も危機に直面して今にも消えそうです。現状を繋ぎ止めるために冠葉は無茶な犠牲まで払い、次第に人道を外れていきますが真砂子からするとその実兄は大切な人間です。実兄が無茶なことに首を突っ込んで命を落としてほしくない。何より、今にも消えそうな少女の命に定められた宿命を感じ、彼女を特別に思いすぎるあまり生きる意味までも喪失しそうになっているだなんてそんな負の側面は本来はならなくてよかった事態です(この場合は本人があまりにも心を捕らわれているゆえですけど、真砂子から見ればその情がなければここまで巻き込まれずに済んだという思いは強かったと思います)。ですので、ここにきて真砂子が突然必死に冠葉を取り返そうとした気持ちもとてもよくわかります。

ユリ熊嵐では登場人物たちが最後に自分たちの「傲慢の罪」を認めています。彼女たちの思いは一途なのだけど、反面わがままでもあるのです。真に他人を想う気持ちには行き過ぎた自分たちのわがままを受け止めることが必要となります。

陽毬は宿命に呑まれそうなかわいそうな子供で、愛に消極的な姿勢を見せています。同情する面もたくさんある。しかし、家族の関係が変わることなくこのままでという願いは彼女の傲慢です。高倉三兄妹はまた、宿命に押しつぶされそうになるあまり自分たちに与えられた愛を長らく忘れていました。陽毬は真砂子が願っても現状では手に入らない愛を無条件に与えてもらっている。宿命に考えを奪われがちだけど、無条件の愛をもらえるその意味で真砂子からすると彼女は恵まれていて、彼女がそのことに鈍感であるのが許せません。
真砂子は実兄が払わなくてもいい犠牲を払って苦しむ姿に耐えられない。彼の手を汚させることなど絶対させたくない。冠葉を救い出そうとしているのは彼女の優しさです。しかし冠葉がなんと思おうと、戻ってきた方が幸せだと決めつけている節があります。彼女の場合は自分を選んでほしいという気持ちが強く出ているので、これは彼女のわがままということになります。
また、他の登場人物たちも優しさと傲慢さが必ず現れています。これは現実の私たちにもとてもよく当てはまるところです。

こうした多角関係もこの作品の重要なポイントです。これは恋愛を中心的なテーマに描いた作品ではありませんが、一方通行な"選ぶ、選ばれない"関係が生む軋轢や傲慢がきれいに浮かび上がっています。ユリ熊嵐での三角関係も見事にそのパターンでした。るるは"選ばれる"こととその"傲慢さ"を知っていて、あえて自分が相手に選ばれることを求めず放棄しながらも隣にいて支える選択をしました。るるは"失う"経験から"何が大切か"を痛いほどに知ってしまった子でした。

"誰かを選ぶこと"、"果実を交換すること"。そのことが人間が輝ける生き方です。
しかし同時に、"選ぶ、選ばれる"ことにはどこかで別の何かが阻害されているという事実がある。だから"選ぶ、選ばれる"ことには"傲慢さ"が挟まります。それが優しさから発したものであっても。


サネトシは本当に悪でしょうか?
桃果がゆりを救うため、ゆりに身体的・性的虐待を加えていた父親を追放するストーリーがあります。ところがゆりの父親は本当に只の悪だったのでしょうか。
多蕗は桃果に救われて世界が輝いていた時期を経験します。ところが桃果との突然の別れが受け入れられず、心が揺れながらも容疑者の子供達に復讐をします。桃果が助けたかつてかわいそうな立場にいた子供達も、大事なことを忘れてしまうとあの大人たちと同じミスを繰り返してしまいます。
桃果は"悪を追放する"ヒーローでした。作中に使われている『かえるくん、東京を救う』という小説の中身はピンドラファンならよく知っているように、正義が悪に打ち勝つ話ではなく、最後は相討ちに終わります。勧善懲悪理論では悪を倒すことはできないのです。二人は過去の存在として描かれます。桃果がこれだけ強い希望の存在でありながら過去の回想でしか出てこなかった理由はここにあります。
23話のエンディングは「使い古した歴史の英雄を葬り去れ」と謳う『HEROS〜英雄たち』であり、ここから最終話中盤までは"サネトシ(冠葉)vs桃果(晶馬)"だった戦いの構図が、大切なことがわかった本人たちによって最終的に塗り替えられる。悪を倒す勧善懲悪でこの話は終わりません。サネトシはただ、”選ばれ続けなかった人間”です。または与えられていてもその愛に気付けなかった人間。
桃果によって見つけられていても多蕗やゆりがサネトシと同じ闇に呑まれそうになっていたのはこのためです。
ここに監督の強いメッセージが込められています。

「君と僕はあらかじめ失われた子供だった。でも、世界中のほとんどの子供達は僕達と一緒だよ。だからたった一度でもよかった。誰かの"愛してる"って言葉が僕達には必要だったんだ」
「たとえ運命が全てを奪ったとしても、愛された子供はきっと幸せを見つけられる。私達はそれをするために世界に残されたのね」

ゆりと多蕗も最終的に自身を変革させます。もう外部の光を求める必要はありません。自分たちと同じ立場にいる人間はたくさんいる。サネトシの側に落ちかけている人間に希望を与えてあげるには自分から手を伸ばすこと。
これはウテナのときから監督が一貫して視聴者に運び続けているメッセージです。

まずは自分たちの優しさとわがままを認めること。それは生きるうえで避けられないことだから。愛も罰も避けられない、それが生きるということだから。目の前の相手だけじゃない突き抜けた感謝の気持ちが必要です。「ありがとう、愛してる」。君と生きられてよかったよ、絶対に忘れないよ。

そしてようやく彼らは粉々にされても、蠍の火に包まれて世界の風景から消えてしまっても、そのことを恐れずに罰を受け止められるようになるのです。

優しく、時に深く傷を抉ってきて、それでいて生きるうえで最も大切なことを教えてくれる。輪るピングドラムはたくさんの希望をくれたとても素敵な物語でした。
ここまで読んでくださってありがとうございました。輪るピングドラムは抽象的な表現が多いけれど、自分の言葉で置き換える作業をしてみてよかったです。そうすることでしかこの意味は心に沁みていきません。もし監督が語りすぎてしまうとメッセージは表面をなぞって空虚に終わるだけだし、他人の解釈を見て納得していても個人の思いはそれぞれ違うのだから、書き起こすことは必要だなと考えた末にようやくまとめることができました。優しいメッセージを汲み取りながらも、それを自分たちの生き様に反映させていくのは容易ではありません。自分たちでそれぞれしっかり受け止められるようになるまで、自分の言葉で発見できるまで、と多くの人がこの作品に引き込まれているのでしょう。私もここまで探し続けた理由は初見から変わらない衝撃を言葉に置き換えていきたかっただけなのだと思います。ここまで魅せてくれる作品はやっぱり天才としか言いようがありません。自分もまんまとイクニ信者になっていたのでした。
監督の次作を待ちながらユリ熊・ウテナも繰り返し見ていくことになると思います。
まさかピンドラを簡単にまとめるつもりがこんなに長文になるとは思いませんでした。

*1: 苹果は図らずも多蕗の言葉に背中を押されて前に踏み出す明確な決意をします。高倉兄妹のことに真摯に向き合い、前向きな言葉で彼らを励まし続けます。また、自ら家族関係に折り合いをつけ、祝福の言葉をかけられるようになります。自分を残酷で幻想的なあの世界に縛り付けたのも周囲の大人たち、それでも彼らを愛して殻を破り、苹果は自身を縛る呪いを愛に変えます。皮肉にも多蕗自身は迷宮の最中だったけど、苹果は彼の言葉に救われて再び立ち上がります(苹果の気力の方を褒めるべきところかもしれないけど)。 "自分に思い当たる部分はないけど、相手が何か大きなものを感じ取って力になっている"、こういう連鎖は救いですね。ピンドラの重大なテーマ、与えてあげることの連鎖です。生きていくことは傷つけ傷つけられることでもありますが、同時にこの上ない希望にも変わることがあるのです。

*2: この作品での人物観はある意味では普遍的である意味で変わっています。家族構造がかなり入り組んでいます。だから”所詮はお話”として見られてもおかしくないかもしれない。そもそも虐待と無縁で暮らしている家庭だってあるでしょう。ただ、何事もなく平和に過ごせていても人間はいずれ別れがきます。必然的な生死の問題、別れの問題、生き方の課題に大きなメッセージを発しているからこそ広く受け入れられているのでしょう。私は未だに利己的な部分が出てしまうので、下手したら物語に登場するキャラ達のように頭で考えることなく受け入れられるまでリピートし続けるかもしれません。ピンドラを視聴し始めてから驚きの連続です。まとめた方がいいネタや発見が出てきたらまた書きたいものです。